特色ある教育活動について
 美山小学校では、地域の特色を生かして、次の3つの教育活動に取り組んでいます。

1.お茶碗給食
 本校の卒業生でもある十五代沈壽官の「お茶碗のぬくもりを感じながらご飯を食べてほしい。」という願いから、地域の窯元さんに提供していただき、月に一度の「お茶碗給食」を行っています。
 新1年生は、4月に自分の使いたいマイ茶碗を選びます。6年間使用したマイ茶碗は、卒業記念として持ち帰り、その後も家庭で使い続けていきます。


 

2.陶芸体験
 美山は、「薩摩焼発祥の地」として現在でも多くの窯元があります。地域の歴史と伝統を学ぶ一環として、毎年、陶芸体験を行っています。

 

3.稲作体験
 地域の方に御協力いただき、毎年稲作体験を行っています。田植えや稲刈りを行い、できたお米は袋詰めして地域の方などに販売しています。

 

美山校区の薩摩焼の歴史

薩摩焼の歴史 
 美山薩摩焼の歴史は、今から400年前にさかのぼります。
 1598年(慶長3年)島津義弘が朝鮮出兵の際、焼き物を作るために、陶工の人たちを引き連れてたどり着いたのが、現在の串木野市の島平です。
 串木野では、約2年間焼き物をつくり、その後この美山に移り住み、それから薩摩焼の歴史が始まりました。
 現在、美山に原型のままの登り窯は残っていませんが、美山小学校の入り口の手前に、初めて登り窯として作られたのが元屋敷窯です。この窯跡の北側に作られた五本松窯跡、さらに400年窯のすぐ西側に作られた御定式窯跡や南京皿山窯跡などがあります。特に、御定式窯跡は、連房式登り窯として、並列に作られた大きな登り窯で、緩やかな傾斜を利用した登り窯として使われたその様子が見られます。
 また、焼き物の陶工として歴史上に残る朴平意や、島津藩の財政の立て直しに貢献した調所笑左衛門の記念碑が、玉山神社入り口付近に建てられています。

(朴平意記念碑)

400年登り窯
 このように美山では、400年にわたる長い歴史を今もなお守り続けながら焼き物を営んでいる窯元が10カ所あります。400年登り窯や美山陶遊館もこれらの歴史に関係する施設の一つです。
 400年登り窯(共同登り窯)は、美山で焼き物を営む人たちが、登り窯の技法をこれからも受け継いでいくために、1998年(平成10年)に作られた共同登り窯です。この登り窯で焚いて焼き物を作る場合は、窯詰め、窯焚きなど大変な作業となります。作業にあたる人たちは、一晩中一睡もせずに窯を焚き続けたり、窯の温度調節を行ったりしなければなりません。相当な体力と集中力が必要な作業です。それだけに、ガス窯や電気釜と違い苦労も絶えませんが、窯出しの時の感激は、これまでの苦労が一挙に吹き飛んでしまう雰囲気だそうです。
 このように、一つの焼き物ができるまで、大変な労力と優れた技術が必要であり、現在美山では、登り窯を焚ける人も少なくなり、とても難しい技法とされています。
 窯で焚く薪は、松の木が一番だと言われていますが、現在、松の木が少なくなってきているために、松以外の薪も使われています。焚き始めてから、最高の温度は、1300度くらいになるそうです。窯の中が炎で包まれる時は、窯の間から炎が噴き出してきます。
 できあがった焼き物は、火力の強かったところや弱かったところがあったりするので、微妙に焼き上がりが違ってくるそうです。それが、ガス窯や電気釜にない良さだと言われています。


 
(400年登り窯)

日韓友好の炎
 日韓友好の炎は、初めて陶工の人たちが美山に来た時、技術や粘土は持ってきたけれども、窯で焚く「火」は持ってこれなかったことから、400年祭が行われた際に、現在の第15代沈壽官先生や窯元の人たちが、韓国の南原市から運んだ火です。韓国の海洋研修船「ハンナラ」号に火をつけた炭を大きな炉に入れ、川内港まで運び、さらに串木野の島平の海岸まで運んできたものです。炉の火を灯篭に移し、その後、江口漁港に漁船で運び、当時通って来たであろうと思われる海岸沿いを通って、美山まで運ばれてきました。
 それ以来、炎が絶えることなく、温かく日本と韓国の友好の炎としてこの焼き物の里、美山の地を守り続けています。


(日韓友好の炎)


 
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