美山校区探検 薩摩焼の歴史について調べよう
薩摩焼の歴史
美山薩摩焼の歴史は,今から400年前にさかのぼります。
1598年(慶長3年)島津義弘が朝鮮出兵の際,焼き物を作るために,陶工の人たちを引き連れて,たどりついたのが現在の串木野市の島平です。
串木野では,約2年間焼き物をつくり,その後この美山に移り住み,それから薩摩焼の歴史が始まりました。
現在,美山に原型のままの登り窯は残っていませんが,美山小学校の入り口の手前に,初めて登り窯として作られたのが元屋敷窯です。この窯跡の北側に作られた五本松窯跡,さらに400年窯のすぐ西側に作られた御定式窯跡や南京皿山窯跡などがあります。特に,御定式窯跡は,連房式登り窯として,並列に作られた大きな登り窯で,緩やかな傾斜を利用した登り窯として使われたその様子が見られます。
また,焼き物の陶工として歴史上に残る朴平意や島津藩の財政の立て直しに貢献した調所笑左右衛門の記念碑が玉山神社入り口付近に建てられています。
(朴平意記念碑)
400年登り窯
このように,美山では,400年にわたる長い歴史を今もなお守り続けながら焼き物を営んでいる窯元が10カ所あります。400年登り窯や美山陶遊館もこれらの歴史に関係する施設の一つです。
400年登り窯(共同登り窯)は,美山で陶器を営む人たちが,登り窯の技法をこれからも受け継いでいくために,1998年(平成10)に作られた共同登り窯です。
この登り窯で焚いて焼き物を作る場合は,窯詰め,窯焚きなど大変な作業となります。作業にあたる人たちは,一晩中一睡もせずに窯を焚き続けます。そのために,相当な体力と窯の温度調節など集中して作業をしなければなりません。それだけにガス窯や電気窯と違い苦労も耐えませんが,窯だしの時の感激は,これまでの苦労が一挙に吹き飛んでしまう雰囲気だそうです。
このように,一つの焼き物ができるまで,大変な体力と仕上がるまでの優れた技術が必要であり,現在,美山では,登り窯を焚ける人も少なくなり,とっても難しい技法とされています。
窯で焚く薪は,松の木が一番だと言われていますが,現在,松の木が少なくなっているために,松以外の薪も使われています。焚き始めてから,最高の温度は,1300度くらいになるそうです。窯の中が炎で包まれる時は,窯の間から炎が噴き出してきます。
できあがった焼き物は,火力の強かったところや弱かったところがあったりするので,微妙に焼き上がりが違ってくるそうです。それが,ガス窯や電気窯にない良さだと言われています。
(400年登り窯)
日韓友好の炎
日韓友好の炎は,初めて陶工の人たちが美山に来たとき,技術や粘土は持ってきたけれども,窯で焚く「火」は持ってこれなかったことから,400年祭が行われた際に,現在の第15代沈壽官先生や窯元の人たちが,韓国の南原市から運んだ火です.韓国の海洋研修船「ハンナラ」号に火をつけた炭を大きな炉に入れ,川内港まで運びさらに串木野の島平の海岸まで運んできたものです。炉の火を灯篭に移し,その後,江口漁港に漁船で運び,当時通って来ただろうと思われる海岸沿いを通って,美山まで運ばれてきました。
それ以来,炎が絶えることなく,温かく日本と韓国の友好の炎としてこの焼き物の里,美山の地を守り続けています。
(日韓友好の炎)